【書評】『チ。-地球の運動について-』:知に魅入られた者たちの美しい狂気

世の中には知らなければ幸せに生きられた事実が存在する。魚豊が描く『チ。-地球の運動について-』は、まさにその「知る」という呪いに取り憑かれた人間たちの物語だ。

舞台は15世紀のヨーロッパに酷似した架空の世界。絶対的な権力を持つ宗教が天動説を真理として掲げ、少しでもそれに反する地動説を唱えれば異端として火あぶりの刑に処される過酷な時代だ。主人公のラファウは合理性を重んじる優秀な少年だった。うまく立ち回り、神学を専攻して楽な人生を手に入れるはずだった彼が、ある学者と出会い、地動説という宇宙の「美しさ」に触れてしまう。

ここから先はただの地獄だ。合理的に考えれば、命を捨てるリスクを冒してまで星の動きの心理を探究する理由なんてどこにもない。しかし、ラファウは地動説の描く軌道の美しさに魅了され、自らの命すらその証名のための犠牲として差し出してしまう。

この漫画が真に恐ろしいのは、ひとりの英雄のサクセスストーリーではない点だ。主人公は物語の中で容赦なく退場する。異端審問官の拷問によって爪を剥がされ、火に焼かれ、肉体は滅びる。しかし、彼らが命がけで隠した「研究記録」というバトンだけが、次の者へ、また次の者へと引き継がれていく。

血(チ)を流し、大地(チ)を這いつくばりながら、知(チ)を未来へ繋ぐ。

日々の業務で効率化やコストパフォーマンスばかりを追い求めていると、彼らの行動は全くの非合理に見える。だが、効率や利益を完全に度外視した純粋な探求心こそが、結果的に世界をひっくり返すほどの力を持つという事実に打ちのめされる。我々が今当たり前のように享受している科学の恩恵は、こうした無名の狂人たちが流した血のうえに成り立っているのだ。

読み終えた後、夜空を見上げる時の感覚が確実に変わる。これは単なる歴史ファンタジーではなく、人間の根源的な欲求である「知りたい」という感情を極限まで煮詰めた劇薬だ。

自分の仕事や人生に何らかの停滞を感じている人にこそ、この劇薬を試してほしい。彼らの命の燃やし方は、現代の生ぬるい常識を根底から焼き尽くしてくれるはずだ。

作品データ

  • タイトル:チ。-地球の運動について-
  • 著者:魚豊
  • 出版社:小学館(ビッグコミックス)

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